身体均整法と社会
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身体均整法の存在は、第二時大戦後、1947年を契機にはじめられた療
術科学化の運動と深い関わりがあります。
当時は、GHQの公衆衛生局を中心にドラスティックな医療の近代化が
すすめられた時代でした。
今日あまり知られることのない、当時の社会的な文脈に立ち返って均
整法の成り立ちをご紹介してみたいと思います。
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亀井進
と身体均整協会
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当時の愛媛県療術学会の様子
(前列右が亀井進)
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戦後、満州から帰国した愛媛県の亀井進は、郷里の愛媛県松山で身体
均整協会を設立しました。
その設立趣意書において、「吾人は、同志と共に体質の科学的研究と、
体の重心傾斜の探求をなし、その是正、復元操縦方法の調査、研究、組織に当たらん」
としています。
当時、日本はGHQの公衆衛生局と、新憲法下であらたにスタートした
厚生省を中心に戦後医療改革が進められていました。
これは、医学教育の改革、医薬分業の徹底、病院改革、看護改革、保
健所の整備と専門スタッフの養成、医療統計の整備、住民情報の本籍地管理から現住
所管理への変更、司法解剖の導入による死因の確定など、きわめて広範囲に渡るもの
でした。
保健所の整備を例にとると、東京杉並区に四課一七係一二〇名の大規
模なモデル保健所を設立しました。そして、そこを拠点にスタッフの養成をすすめ、
1948年末までに8万1000人の職員と全国に48ケ所の近代的な保健所の整備をすすめて
ゆきました。
これは当時の食料不足や伝染病の蔓延という事態に、ほとんど有効に
機能しない日本の厚生行政を根本から立て直す作業でした。
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療術を
取り巻く社会状況
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日本の医療政策について、GHQ公衆衛生局長のサムスは、「科学技術
が行政に浸透していないのに驚き、科学技術を根幹とする衛生行政を行なわなければ
ならない」と考えていました。
そして「日本に新しい医療システムを確立するには、疾病の予防、医
療、社会福祉、社会保障の四分野を車の四輪の如く統一的に、かつ均等に推進するこ
と」が重要であると考えました。
民間療法についても、あんま・はり・きゅうが視覚障害者の授産事業
としてもっている社会的意義を認めながらも、非科学的な療法は排除されるべきであ
ると考えに基づいて政策の転換がはかられました。
1947年、あんま・はり・きゅう・柔道整復のカテゴリーに入らない在
来の手技・光線・温熱・電気・刺激の民間療法を禁止する方向で立法措置がとられた
のです。
厚生省は、京都大学生活科学研究所において民間療法家の全国組織で
ある全国療術師協会の協力のもと、療術実態調査を開始しました。
具体的な症例に対する治験や、療術の考え方・急性症状への対応・医
療機関との関係などの項目についてアンケート調査を通じて明らかにしようとするも
のでした。
このような作業を通じて、やがて指圧や理学療法の資格化がはかられ
てゆくことになりました。
一方、全国の療術師の間には、療術実態調査を契機に業権確保の足掛
かりにしようという考えが広がりました。
このようにして療術法制化の運動が活発化することとなりました。
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身体均整法『類別克服法』掲載の全療
新聞(1956)
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身体均
整法と療術科学化運動
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当時の新聞は、鉄道車両を利用した厚生省主催の衛生博覧会が全国を
巡回し、各地で黒山の人だかりとなったと、戦後医療改革の一幕を伝えています。
科学的な医療の導入は、庶民の衛生感覚や医療に対する見方を大きく
かえてゆくことになりました。
療術法制化をめざす民間療法家の運動は、必然的に療術科学化の方向
性をもたざるをえませんでした。
療術科学化の運動に参加した亀井は、1951年、中四国地区の療術師会
から選ばれたメンバーの一人として、『日本療術学』を執筆し、次のように述べてい
ます。
療術の姿をみると、現段階は経験治療法時代にあって、理論の裏付け、
法則性が皆無だといってよい。だから利己的であり、独断論的であり、治療技術では、
特技的陥っている。ゆえに療術家は自己の最高点、すなわち特別の技術、特別にあがっ
た効果のみを主張することに急で、足許のふらついていることに気付いていない。こ
の点に療術の真の弱さがある。(『日本療術学』序文)
当時、療術には四千種もの業態があるともいわれ、同じ療術師のなか
からも、互いを唯我独尊的と批判する声が少なくありませんでした。
療術禁止の立法化は、このような民間療法家の危機意識を先鋭化させるものとなりま
した。
『日本療術学』のなかで亀井は、「人類の保険衛生上に価値があるか
ないか」という点から療術を問いなおすべきだと主張しています。
愛媛県療術師会の会長を務めていた亀井は、中四国地区の多数の療術師らと手を携え
て厳しい試行錯誤を開始しました。
オステオパシー・カイロプラクティック・スポンデロテラピー・整体・
足心道・体質匡正などの手技的な療術が、共通の土台のうえで議論される素地は、こ
のような社会的状況に促されたものでした。
亀井は、「科学的療術」とは「調整的行為の実践的必要に従って、療
術の実証的修正、増大をこころみるもの」とする機能主義的立場にたった調整的行為
論を提唱しました。
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医学生
理学分野の新しい潮流
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1960年の日本精神身体医学会の設立を契機に、精神身体医学が本格的
に日本に導入されるようになりました。
精神身体医学は、第一次世界大戦後の広範な戦争後遺症が突き付けた
旧来の医学の限界を、心身の一体性の観点から問い直すものでした。
キャノンは、強い精神的な緊張のさなかに交感神経系の興奮が起こる
と、消化性潰瘍などの臓器の病変が発生しることを報告しました。
また脊柱近傍の交感神経幹を切除したラットでは、温度の変化など環
境変化に対する適応力が著しく減退して寿命が縮まること、交感神経系が血中のカル
シウムや炭酸の濃度の平衡性維持に働いていることなどを明らかにしました。
レイリーは、交感神経系に生じた病変が臓器の損傷を引き起こすこと、
チフス菌が咽頭神経に感染するだけで腸の病変が発生することなどを明らかにしまし
た。
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心身相
関の医学
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旧来の医学は、臓器に生じた病変こそが真の疾患であり、神経系に生
じた興奮は、暗示によって起こすことも消すことも可能であって、真の疾患とは関わ
りがないと考えていました。
各臓器の病変にともなう細かな徴候が集められ分類されて、医師には
その細かな徴候を見つけだすことが求められました。
しかし、このような医学は、第一次世界大戦で膨大な数の一般兵士を
襲った消化性潰瘍や運動失調、難聴、精神障害などをまえに、ほとんど有効に機能す
ることが出来ませんでした。
当時の医学教育について、ストレス学説を打ち立てたセリエは、発熱
や紅潮、心身の苦痛など、あらゆる患者が共通して示す徴候について、教授はまった
く何の感心も示さなかったと、回述しています。
1960年、九州大学に心療内科が開設され、日本精神医学会が設立され
ました。九州大学教授池見酉次郎の『心療内科』(中公新書)が出版され大きな話題
となりました。
こうして疾病の発症に神経系の働きが重要な役割をはたしていること
が大きく着目されることになりました。
ホメオスタシー、ストレス、大脳皮質内臓反射などの概念が誕生する
とともに、自律神経系と健康、人間の成長過程における適応と各人の個性の発現、ス
トレスと疾病の発症などが、現代人の健康を考える上で重要なキーワードとして意識
されるようになってきたのです。
これらの研究は、当時の療術科学化の運動、身体均整法の考え方にも
大きな影響を与えることになりました。
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ストレス学説のH.セリエの来日を報ず
る当時の全療新聞
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鍼術を
めぐるユニークな研究
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戦後医療改革のなかでは、伝統的な日本の医療に対する評価はきわめ
て低いものでした。そういったなかで、鍼術の効果や作用について、科学的な視点か
ら光を当てようとする地道な研究が各地で展開されました。
京都大学の中谷良雄は、皮膚の上に点在する電気抵抗の低い点と鍼術
の経絡線とに、きわめて類似性が高いことに着目し、これを良導点あるいは良導絡と
名付けました。
皮膚の角質層が電気的に絶縁性が高いことから、このような良導点は
汗腺の活動によるものと考えられました。
皮膚の圧迫と汗腺の活動に関連して、名古屋大学の高木健太郎は皮膚
を圧迫するとその側の身体半側に発汗の抑制が起こることを発見し圧発反射と名付け
ました。
このような身体半側の発汗抑制は、とくに風邪の引きはじめなどスト
レス反応の警告反応期に表れやすいと高木は報告しています。
自律神経系の働きと経絡経穴との関連を見い出そうとする研究は、こ
のほかにも体性内臓反射に着目して体表上のさまざまな反射点を研究した小野寺直助・
藤田六郎・松永藤雄らの研究があります。
こうして、身体の末梢に生ずる痛みや発赤、腫脹、強ばりと全身的な
自律神経徴候や内臓諸器官の働きと関連づけようとする科学的な根拠が明らかにされ
てゆきました。
身体均整法の運動系の視点は、このような自律神経学や運動系の研究
成果を深く結びついて確立されました。
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